ちゃらんぽらんの日記

おカネやビジネスのことが中心です。

焚書坑儒と終身雇用と競争社会

五常
思いやりをもって生きましょう。・・・そうだ。
目先の私利にとらわれず、やるべき事をやりましょう。・・・ごもっとも。
目上の人には敬意を、年下の人は暖かく見守りましょう。・・・そうすべきですね。
謙虚に学問や人生の勉強をしましょう。・・・そうしましょう。
約束を守り、誠実に生きましょう。・・・当然だ。

誰もこれらの原則に反論はないと思います。これへの反論があるとすると、自分勝手に、私利だけをむさぼり、他人をないがしろにして、勉強も反省もせず、約束は平気で破る生き方ということになります。すごいですね!天使と悪魔の対比にも匹敵します。上記の5つの原則は、「仁・義・礼・智・信」という五語で表現され儒教でいう五常の徳性の教えなのです。きっと、日本人だけではなく外国のキリスト教イスラム教の信者たちも頷けるのではないでしょうか?

紀元前500年の頃、孔子が提唱した儒教。その300年後の紀元前213年秦の始皇帝焚書坑儒により書物を焼き払い儒学者たちを生き埋めにしてしまいます。始皇帝は紅毛碧眼の異形の人物であったという説があります。私は、始皇帝イスラエル十二部族のうち、東方に逃れ月氏国を経由してたどり着いたマナセ族だったのではないか思っています(確固たる根拠はありませんが)。話を戻して、いずれにせよ始皇帝は広大な国土を統一するためには、五常を排斥し「朕の言のみに従うべし」という方針をとりました。そして、漢を建てた劉邦の時代を過ぎ紀元前191年にやっと儒学者復権が認められます。孔子の時代から千年後の西暦513年に儒教が日本に渡来、その後島国という環境の中で、温存されます。中国では毛沢東林彪との対立軸の中で、再び孔子を否定し、今の共産党体制が出来上がりますが、社会が利己的になりすぎた反省から孔子を再評価する機運もみられます。

国際競争:
90年代の後半からグローバル・スタンダードという言葉が使われ始め、もう20年になります。マーストリヒト条約にもとづいて欧州統合と単一通貨を目指すと欧州域内の共通市場で規模を拡大する金融や医薬などの大合併がおきます。それに負けじと米国ではグラス・スティーガル法を撤廃して60年間続いた証券と銀行の垣根を撤廃し規模の拡大のパワー・ゲームの時代に突入します。サッチャー首相やレーガン政権から顕著となった新自由主義の天下ですから政官民もこぞって同調し、「グローバル・スタンダードに従わざる者は人にあらず」といった風潮が蔓延しました。

グローバル・スタンダード(所謂、欧米主義)は契約社会ですから、儒教五常のうちの「信」と共通しています。また、自己研鑽し能力を高めよという「智」も違和感がありません。「智信」はグローバル・スタンダードとも違和感がない世界共通の価値観と言えます。次に「義」はどうでしょうか?人類共通の公益なのか、国益なのか、民族の利益なのか、企業の利益なのか、投資家のみの利益なのか、ステークホルダー全体の利益なのか、お家の利益なのか?視点や立ち位置によって異なる価値観が生じるのが「義」であり、大義から小義までさまざまです。しかし、視点が異なるにせよ「義」という理念もグローバルに共通しており、「義・智・信」の三常をグローバル・スタンダードはカバーしています。

一方で、「仁」は寛容で広い心の状態をも表しており、「礼」はその具体的な行動作法を表しています。「仁・礼」は、弱者に手を差し伸べ、強者の奢りを戒めます。同時に、勝者を讃える心をも「仁・礼」は包含しています。この儒教五常に根ざして日本の武士道は育まれました。この仁と礼は、キリスト教の博愛精神にもイスラム教の喜捨の精神にも共通しています。ユダヤ教では同じ神を信奉していても、さらに古い宗教なので「仁」という概念は無いように思えます。

どっちが強いの?:
軍隊では、礼に代わるものとしての軍律があります。しかし、仁はありません。激戦地の有刺鉄線に絡まって身動きが取れなくなった奇跡の名馬を、戦闘を休止して敵のドイツ兵とともに助ける感動の映画「戦火の馬」では、兵士にも個人的には共通の「仁」という心情があることを想起させてくれます。しかし、組織全体に仁があるわけではありません。

なぜ儒教五常を持ち出すか、というとそれは現代の競争社会と終身雇用の崩壊に強い危惧を抱いているからです。「終身雇用だから競争力が低下している」と識者諸氏は言います。「国際競争に勝ち抜かなければ」と連動してワンセットで皆さん主張されます。本当にそうなんだろうか?という思いを拭えないのです。

まず「身分保障(終身雇用)をしては競争に勝てないのか」という問題があります。競争の最たるものは戦争です。カネにあかせて腕利きのプロを集めてというのは傭兵部隊で軍隊を組織するのと似ています。一方で、徴兵して知識を習得させ訓練を積み軍律を守る軍隊が終身雇用的な身分保障された組織です。仮に、兵器の能力も兵力も武器の配備も全く同じだったらどちらが強いでしょうか?私なりの答えは、「どちらとも言えないが、仮にモチベーションに差があるならば総体としてのモチベーションが強い方が強い」と思っています。ひょっとしたら瞬間的なモチベーションの強度で言えば、傭兵部隊が優位かもしれません。しかし、モチベーションの持続性では身分保障された伝統的な軍隊が強いかもしれません。この勝敗は、モチベーションの強度と持続性の積(かけ算)によって表されるのではないでしょうか?つまり、「終身雇用では競争に勝てない」という説はある特別なケースではあるものの、普遍的な定理ではない、というのが私の感想です。要は、モチベーションの設定とインセンティブの設計なんだと思うのです。成果主義の対立軸が終身雇用では決して無い。終身雇用を堅持して何故悪いと、堂々と反論する経営者が少なくなってしまったのはとても残念です。今、それを堂々と主張しているのはむしろ中小企業。私は、そんな中小企業の経営者を応援したいと思っています。

競争の果て:
もうひとつの問題は、「国際競争とは誰の話ですか?」という問題です。これをブレークダウンすると、まず、日本は国際競争で勝ち抜いて経済大国を維持できるのかという問題に突き当たります。私は、「かなり不可能に近い」と思っています。終身雇用の善し悪しとは別に市場のグローバル化がすすんでいることも事実です。市場のグローバル化が進むと究極的にはどうなるの?という疑問が湧いてきます。答えは、日本人も米国人もアジア人もアフリカ人も、同様な教育水準になり同様の生産性となり同様の所得水準になる収斂(コンバージェンス)が起きるのです。そうなると国という切り口では、人口が多いほど経済力の規模は大きくなる。当然の話です。つまり、国際競争がすすむと国際競争ができなくなる世の中に近づくわけで、現に中国もアジア人も新興国の人たちもどんどん日本人と変わらない生活レベルになっていて、ある意味で日本人も欧米諸国も職を奪われるケースも出てきているのです。日本に限らず先進国が国際競争に勝ち抜けるというのは大きなトレンドの中では夢物語かギミックではないかと思っています。唯一、画期的な技術革新や発明が日本独占で生まれたら、話は違いますが。そんな画期的なものが、そうそう簡単に生まれませんし、ましてや短期的な結果を問われる傭兵部隊のような組織で生まれる筈もありません。

教育水準も生産性の潜在能力も所得水準も同一条件で、日本だけが先駆けて平均年齢が高くなっていく、ということを真剣に考えなければなりません。それは、「国際競争に勝ち抜く社会が幸福な社会なのか」という哲学的な命題を今、日本は突きつけられているようにも思えます。私の大好きな国のブータンの思想や社会を日本人は真剣に学ぶべきではないでしょうか。今の一人当たりGDP水準で十分に文化的な生活ができているのだから十分だ。後は、若者や子供・孫の世代や年長でも時代に翻弄され不遇だった人たちが安心して暮らせる「公正な分配ルール」が創られれば十分だ。と考える人は少なくとも私だけではないはずです。ゼロ成長か人口減少のスピードと同じ歩調の緩やかなマイナス成長、しかし一人当たりGDPは維持され豊かさは変わらない。それが日本の置かれている現状の目標であり、その中で持続可能な社会を維持するには、「公正な分配ルール」と「歪んだ法体系や行政執行組織を点検して」まずは、国民全体が「仁・礼」をもって納得できる社会を再構築する。そのうえで、自由な交易でプラスアルファの成長を目指すことが必要かと。

コミュニティの価値観:
私は個人投資家の資金を運用した経験はなく、長らく機関投資家を顧客に資産運用する業務を大きな組織や独立系の組織の中で行ってきました。日本株ファンドマネージャーだけではなく、債券や外国株式のファンドマネージャーやアナリストたちの部下や同僚が、グローバル主義・新自由主義に染まっていく姿も目にしつつ、よく「その投資判断で儲かるのは分かるが、それは社会に良い影響があるのか」という議論で衝突しました。例えば、90年代半ばの 某SKファンドというサラ金です。一時は銀行の低迷もあって、サラ金業者の時価総額が銀行に追いつくのではという勢いでした。まだ、現在のような規制もなく確かに高収益なのです。日本株担当の部下がポートフォリオに組み入れたいと・・・。結局は、私の権限で押し通して却下するのですが、いつも資本市場が諸刃の刀であると感じてきました。資本市場の理論にはもともと要素として「仁も礼もない」からです。世の中には善と悪とが明確に区別できない現象や問題が多くあります。その判定基準は、最後は「コミュニティにおける道徳感」だと思えるのです。その意味で、数多く接してきた学者の中で好きなのは、社会学で言えばマイケル・サンデル教授、経済学で言えばスティグリッツ教授です。彼らの共通点は、多様性を認め道徳観を社会基準に含めようとしていること。

日本のコミュニティにおける道徳観で「仁・礼」は切り離せないと思います。短期的には不利になったとしても、持続性を考えれば日本は伝統的な価値観を再評価すべき時期なのではないでしょうか?少なくとも三常のグローバリズムを盲信するリスクは避けるべきだと思います。