事微記 - ちゃらんぽらんな日記

歴史や文化、ビジネスのことが中心です。

天空海闊:山田方谷とクレスピ - 資本論 以前 - (2)

クレスピさんについては2011年9月1日の筆者記事を転載します。

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クレスピ村と至誠惻怛(しせいそくだつ)

 

150年前の資本主義の原点

資本主義は社会の生産性を高めるために必要な進化の段階ではあるが、資本主義の成熟とそれに伴う恐慌や階級闘争の激化を契機に革命が起こり共産主義に移行する。日本で大政奉還が行われた1867年マルクスは「資本論」を出版して、こう主張した。戦後の社会主義共産主義が失敗した要因は資本主義の成熟化という過程を経なかったことによるものとする意見も多い。

産業革命によってより多くの資源と原料が必要となり帝国主義の流れが強まったこの時代に注目すべき2人がいる。

ひとりはイタリア人クリストフォロ・クレスピで彼の企業城下町クレスピ・ダッタは世界遺産に認定されている。従業員に庭付き一戸建て住宅を与え、余暇の野菜作りを奨励し、劇場や温水プールを作り、資本家と労働者が幸福に共存できる街を作った。息子のシルビオ・クレスピは労働法関連の法律を作った政治家でもあり、ベルサイユ条約の講和会議にも出席している。ムッソリーニが台頭しなければ首相になったであろう。クレスピ・ダッタは1930年まで50年存続した。今もその労働者の子孫はクレスピ村に住んでいる。労働者の理想郷とされ公正な労働分配率の実践のひとつの見本であろう。

もうひとりは、さかのぼること20年前の1850年備中松山藩山田方谷が行った藩政改革である。至誠(誠実さ)と惻怛(慈愛)を旨とした方谷は、財政赤字を公表し、50年払いの借り換えを実行。同時に乱発で信用失墜した藩札(私製通貨)を焼き捨て藩に兌換を義務付けた。市場変動の激しい堂島米会所の動向に左右されないよう大阪の蔵屋敷を廃止し災害時には領民への援助米に当てた。上級武士にも下級武士並みの生活レベルを命じ、備中鍬などの特産品では生産者への報酬を重視した。貨幣価値喪失の藩札と多大な借金に悩む諸藩の財政破綻の中で唯一の成功例である。

山田方谷の考え方は弟子の三島中州を通じて、後に日本の資本主義の祖と称された渋沢栄一に引き継がれる。 これらに共通しているのは至誠惻怛であり渋沢栄一の云う道徳経済合一説だ。今の資本主義に欠けているのは道徳である。

心即理と至良知

陽明学の誤解

前述の山田方谷吉田松陰高杉晋作西郷隆盛佐久間象山王陽明陽明学の影響を大きく受けている。幕末の維新運動は、幕府と諸藩の財政赤字陽明学が遠因だったと言っても良い。

陽明学の「良知」とは正しいものは正しい、正しくないものは正しくないとズバズバ言って、その通り行動することである。これが革命運動にとっての精神的な支柱となった。しかしこの解釈には大きな危険をはらむ。自己の私欲や執着を良知と勘違いして暴走するリスクである。何か今の利益追求主義に似てますね。陽明学でも、本来は「心即理」という鏡面のような無私の境地を前提としている。

山田方谷はこの陽明学のもつモラルハザードの危険性を理解しており、弟子にはまず仁徳を説く朱子学を学ばせ、そのうちセンスの良い者にのみ陽明学を教授した。道徳と政治経済の一致である。

 

為政者にとっては再考の時

 15世紀の王陽明も19世紀のマルクス山田方谷、クレスピも共通する考え方が根底にあります。更にさかのぼれば紀元前の孔子老子などの諸子百家の時代でも治世の考え方は変わりません。年初のジャスミン革命でもSNSを通じて瞬く間に革命が広がりました。情報が瞬時に拡がるIT社会で為政者は心即理や至誠惻怛と向き合わざるを得ないでしょう。

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天空海闊:山田方谷とクレスピ - 資本論 以前 - (1)

今から190年前の1830年頃に備中松山藩山田方谷という朱子学陽明学を極めた学者がいました。

令和元年のタイミングで日銀は新札発行を決め1万円札には「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一で決まりましたね。確かに渋沢栄一は現在の東京証券取引所みずほ銀行の前身の第一国立銀行七十七銀行東京瓦斯など多くの大企業の設立に貢献しました。しかし、1867年に幕府随行員としてパリ万博に薩摩藩佐賀藩とともに参加したという幸運と明治時代という時代背景が大きく味方をしたという印象が拭えません。大正期に入った1916年に『論語と算盤』を著し「道徳経済合一説」を主張しています。渋沢栄一は私心を捨て尽力した立派な実業家です。しかし、彼に影響を与えたのは同僚で義利合一論を唱えた二松学舎創設者の三島中洲です。そして三島中洲の師匠が備中松山藩山田方谷です。

パリ万博の年は日本では慶応三年で色々なイベントが重なっています。パリ万博では数寄屋造りの茶屋が人気を博していた頃、大政奉還が行われ、坂本龍馬が暗殺されます。マイナーな話ですが、政治の舞台を失ったベルギーの貴族階級だったL・ド・ボーヴォワールLudovic De Beauvoirが世界旅行の途中で日本に寄り箱根七湯で入湯し遊んでいます。世界的に影響を与えたのはマルクスの「資本論:Capital: Critique of Political Economy」が出版されたことでしょう。

マルクス以前の山田方谷とクレスピ(イタリア)には以前から関心がありました。8年ほど前にセミナーで講演する機会があり、その時にも山田方谷に触れていますので、筆者の当時の記事をそのまま以下に掲載します。

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温故知新 - 150年前からの債務問題:藩政改革と正貨の問題

 

今から150年ほど前の19世紀は江戸時代から明治に移る激動の世紀だった。欧州では財政破綻と重税に耐えかねた民衆が蜂起した1789年のフランス革命の後に、ナポレオンが登場し版図を拡大すると同時に民主主義国家を続々と誕生させ、1810年メキシコ独立戦争など中南米に影響を与えた。

日本では諸大名が発行した藩札(私製通貨)が藩の財政を圧迫し続けていた。藩札の発行は1661年の福井藩から始まり、その後諸藩が続いた。豪商が札元となって引き受けるケースも多く、1753年秋田・久保田藩の佐竹騒動のように米の凶作を見込んだ商人の価格操作が行われるなどの事件もあり、藩の財政を圧迫し続けた。

1820年頃になると、財政破綻のリスクが高まるようになった。薩摩藩では税収の7倍の負債を抱えた結果、調所広郷が250年払いの借り換えを断行、肥前佐賀藩でも長崎の商人に対しては100年払い、鴻池に対しては千年払いの措置をとった。長州藩でも同様のデフォルトの事態に陥っている。

注目すべきは備中松山藩岡山県)の山田方谷1850年に行った藩政改革である。仁徳を説く朱子学と合理性を追求する陽明学の両方を学んだ山田方谷の理財論は、弟子の三島中州を通じて、後に日本の資本主義の祖と称された渋沢栄一に引き継がれていくことになる。

山田方谷は、「財政改革といえば、財政の窮乏という、数字の増減、即ち収入の増加と支出の削減をいかにするかということのみにとらわれてしまい、その他のこと(哲学)は財政再建の名のもとに片隅に追いやられてしまいがちになる。風紀やモラルが荒廃し、教育水準が低下し、社会が閉塞した状態では、いくら財政のそろばん勘定があっていても長続きはしない。あとで大きな反動が返ってきて、前よりも一層悪い状態に陥ってしまう。厳しい倹約と緊縮財政だけでは、経済が、社会が萎縮してしまう。額に汗して働く国民が報われ、豊かになるよう、いかにして経済に、社会に活力を与えていくかということに心を砕かなければいけない。つまり、国民を富ませ、幸福にさせ、活力のある社会をつくることが必要なのである。国民の立場に立って財政・税制等の社会制度を考えるということである。そうすれば、自然と財政は豊かになる。」とした。

実際には、主に以下の政策を採った。

  • 藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済)。
  • 大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
  • 上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開した。
  • 多額の発行によって信用を失った藩札を回収し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が減少し、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
  • 領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して一種の専売制を導入した。他藩とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視された。
  • これら特産品を、商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避け、直接江戸へ運び販売した。
  • 藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも藩士へ取立てた。

透明性・市場安定化策・為政者のモラルハザードの排除・通貨価値の安定・産業振興・マーケティングインセンティブといずれも現代の政策手段に合致するものばかりであり驚きである。この一連の問題と改革の処方で注目すべきは、「止むを得ず借金の整理をせざるを得ない事態に陥った場合には、政府(権威)の信用と正貨(信用ある通貨)がセットで必要である」という点である。

明治維新の翌年1869年に高輪談判が欧米列強5カ国と行われ、外国商人からクレームのあった贋貨回収を大隈重信国際公約をした。1871年には廃藩置県と同時に、藩札回収令が行われ通貨単位は両から円に切り替えられた。それに併せて、藩債処分が行われ267の藩・代官・旗本の債務は減額された(天保年間以前の債務は帳消しとなった。)。借金まみれの藩主は債務が消え華族になったが、主な貸し手の商人が集中した大阪経済は衰退した。

日露戦争の前の1899年、ハーグ陸戦条約で戦争行為のおける掠奪が禁止され、現地調達の物資も現金払いか領収書(軍票)の発行が義務付けられた。これにより、軍票が戦時通貨としての役割を果たすようになる。第二次大戦まで、軍の力により無理やり軍票での支払に応じざるを得なかった民衆はインフレ(紙幣の無価値化)に苦しむことになる。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本政府の軍票支払義務は連合国から免除されたが、1999年の東京地裁判決まで、香港・フィリピンの軍票補償問題は続くことになる。

「国家財政の破綻と正貨」の問題は今に通じるものがある。

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以上

(事微記)

異聞奇譚:欧州編(1)時間かかるのどんだけー?

昔はアジアでビジネスをしようとすると常識外れの事態が当たり前でした。先進国のほうが法令も整っているのでマシと。筆者はそれも1つの理由で現在フランスでビジネスを進めております。

ところが、これがまたスイスイと行きません!?

その1)消費税番号が3ヶ月も通知されない?

  • 今年1月にフランスに会社を設立しました。EUでは消費税はVAT(付加価値税)、フランスではTVAと言います。最初に送られて来たのは次のようにTVA番号が決まったので、その掲示を含め何百ユーロ払えという手紙でした。「ん?納税番号の通知にEUはお金を取るの?」単純な疑問です。で、よく調べてみると詐欺でした。納税番号通知詐欺なんてあるんですね。
  • その後1ヶ月経っても納税番号が通知されません。痺れを切らして現地の会計士に頼んで税務当局に交渉に。「もう1ヶ月以上納税番号が通知されないんすけど、消費税払わなくていいんすか?」。即座に再発行しますとのこと。でも結局3ヶ月かかりました。珍しいケースと言われましたが、大丈夫ですかね?お役人さん。

その2)Eコマースのクレジットカード決済申請に2ヶ月もかける銀行担当者?

  • 銀行さんは日本でも有名なフランスの某銀行さんに口座を作っています。その担当者M氏はテキパキとよくやってくれます。日本と違って必ず担当者が付くのでM氏とはよくやり取りをします。
  • Eコマースのクレジットカード決済は現地では銀行が必ず紐付きます。ただ、カード決済は部署が違うのでその担当者P氏を紹介してくれました。このP氏がとんでもなくダメダメです。申込んで3週間もほったかし。Webバンキングのメッセージ欄に「Pさんは3週間何もアクション取ってくれないんすけど」と書き込んだら、慌ててアクションをとり始めました。上司から怒られたのかな? しかし、その後もスイスイと行かず結局2ヶ月もかかってしまいました。

その3)不要な工事を水増し提案する工事業者?

  • お店を開こうとしてますが、不動産ブローカーが工事業者S氏を紹介してくれました。向こうは営業権売買や賃借権売買などインフィル(内装)工事が必須になるケースが多いからでしょう。今回のお店は新築なので大きな内装工事は不要です。しかしS氏の見積もりをみると「高いなー!新築でなんでこんなにかかるの?」。よく見てみると、倉庫を壊し、トイレの位置を変えと無理やり大掛かりな内装工事を見積もっています。建築許可が必要な水準までワザと不要な工事を計画してカサ上げしているのですね。道徳観も何もない業者です。無知な日本人はカモと思っているのでしょうか?

その4)何を言っているか意味不明のオンラインサポート?

  • 日本語は世界一曖昧な言語だと思っていました。主語も、場合によっては目的語も省略して会話するのが普通なので。外国人にはわかりづらい言語です。しかし、Eコマースのモジュール追加でのカスタマーサポートC嬢はさらに意味不明でした。「C嬢:作業用のパスワードを設定するから、Eメール認証がきたらURLクリックしてね。」「私:何のパスワード?」システムはサーバーやらアプリやらモジュールやら3つ以上で構成されるのでどこの部分のことを言っているのかがさっぱり分かりません。そんなやり取りが1週間以上続きました。これも多分、上司が見たのだと思いますが。「私の表現が不正確でごめんない。 XXXのXXXに関するパスワードを設定するのでXXXしてください。」やっと意味が分かりました。「最初からそう言えよ!」。

これ以外にも細かいところのスタックが結構あります。アジアよりましと思ってフランスを中心とした欧州でビジネスをしていますが、まだまだ血圧の薬は手放せそうにありません。

(事微記)

 

モノ(武器)作りの鎌倉期:歴史メモ

平安末期の武士の勢力が台頭してきた頃から日本刀の初期刀工集団が誕生します。良質な砂鉄が採れる中国山地備前、京の都に近い山城や大和の国で有力な刀工が生まれました。需要がありスポンサーがいる所で兵器産業は発達します。

鎌倉時代は武士政権の誕生で一気に日本刀文化が発達した時代でした。日本刀も形を変えていきます。太刀を佩(は)くのが鎌倉スタイルで馬上で抜刀するには刃は下向きでなければなりません。また、馬上から斬るので刀身は長くなります。長い刀身を馬上で抜くのは大変なので腰に紐でぶら下げる形で鞘を後方にずらして抜刀します。

その後、騎馬戦ではなく地上戦が主体になる後世では刃は上向きで刀身も短くなります。江戸初期の宮本武蔵のような脇差を使った二刀流も短く、佐々木小次郎燕返しの長刀は時代遅れだったわけです。

鎌倉後期には幕府の膝下の相模国でも日本刀が作られます、相州伝と言われています。日本刀ができる立地条件は①砂鉄が採れる川があること、②炭焼きをする森林資源があること、③泥が採れること、④綺麗な水があることです。北条氏の膝下の小田原は作刀にも好都合の立地でした。相州伝は総じてそれまでの刀の上品さはなく無骨な刀です。美濃関の日本刀も有名ですが、信長・秀吉などの大スポンサーが登場する戦国時代まで登場を待たなければなりません。

武士を「もののふ」というのは徐福が日本に来て物部氏となったことに由来します。物とはすなわち武器を意味し、徐福軍団の軍事統括が物部氏でした。同時期に海部氏も来ます。ただ、この時期に海戦はなくあくまでも朝鮮半島などとの交易の船の管理なので山陰など一部の地域に限定されます。徐福が九州から東北まで歴訪しそれに随行した物部氏は全国に根付きます。海よりも山間部の方が武器製造もでき、戦闘訓練もできるため自然と豪族になり武士集団を形成しました。

武士は山伏や野伏にも由来し山の戦いの民でした。また、武士は「さむらい・侍」とも言います。人偏に寺と書きますが、寺は「はべる・寄り添う」という意味から来ています。侍とは貴人(徐福や天皇、将軍)にはべる人であり僧侶は仏にはべる人という意味です。

私は徐福はエフライム族(イスラエルの民でエジプトの宰相になったヨハネの長男)で、物部氏とその後の多くの東国武士はその系統だと思っています。一方で、聖徳太子の参謀となった秦河勝に由来する秦氏や薩摩の島津や土佐の長宗我部が同系でマナセ族(ヨハネの次男)と考えています。ただ、イスラエルは複雑でマナセの他にユダ族や祭祀を取り仕切るレビ族が混じっている可能性もあり、いずれじっくり整理してみようと考えています。

話は戻って、この頃の陶器の窯も鉄の溶融炉も800〜1200度程度が限界でした。鉄の融点は1538度なので日本刀を鋳造しようにも温度が足りません。この半融解の鉄を叩いて分子を均質化していく鍛造の技術が、発展を遂げます。この職人技が世界一の切れ味を誇る日本刀を生み出しました。

神奈川には鎌倉に1件、小田原に2件、伝統製法を受け継ぐ刀鍛冶さんがいらっしゃいます。(事微記)

 

源氏のイノベーション:歴史メモ

いよいよ600年続く武士の時代に入ります。

鎌倉幕府が成立する前の約10年間は源平合戦の時代です。同じ武士同士の源氏と平氏ですが、なぜ源氏が勝ったかといえば私は次のような印象を拭えません。

官僚的な平家(京都・神戸) vs 雑草イノベーションの源氏(東国)

この頃の戦にはルールがありました。名乗りをあげて一騎打ちというマナーです。何か実践というよりも天皇の御前での天覧試合のようですね。しかし源氏の戦いは掟破りです。

1174年頃 源義経鞍馬寺)と武蔵坊弁慶比叡山)の天台密教コンビが育ての親の奥州藤原氏に、その後兄頼朝の挙兵で参加。この二人は武士というよりも忍者の印象です。1180年 木曽義仲(頼朝の従兄弟)は富山・石川の境の倶利伽羅峠で火牛の計を用いて2倍の平家の大軍を崖に突き落とし勝利、京に入ります。1184年 源義経一ノ谷の戦いで70騎を率いて急な崖を逆落としの奇襲。1185年 那須与一屋島の戦いで沖の小舟で平家がかざした扇を弓矢で射抜く。忍術・奇策・長距離の弓矢などバリエーションが豊富ですね。

弓矢などの武器の進化も見逃せません。それまでの弓は丸木弓といって一本の木を削り出したものでした。梓・槻・柘などの木が使われていました。それでもポッキリ折れてしまい、距離も出ません。しかし、この頃から伏竹弓が登場します。表面に竹を貼った合板でしなりが飛距離を産みます。その後竹の合板は三方や四方と進化していきます。さらに弦を貼るのに三人張(三人がかりで張る)だったり場合によっては五人張で強弓に仕立てます。この頃は刀よりもまだ弓矢が戦場での主力でした。日本独自の長射程距離の大弓は400年後の豊臣秀吉朝鮮出兵でも威力を発揮しました。大陸では短弓しかありませんでした。

ちなみに、火牛の計は300年後の1495年に北条早雲小田原城奪還に利用しています。同じ年に鎌倉の大仏まで津波が到達したとされている鎌倉大地震が起きています。北条早雲がそのどさくさで小田原城を手に入れたという説もあります。

いずれにせよ、権謀術数や奇策、武器の進化とハングリー精神などで勝利した武士集団が政権を握ることになります。(事微記)

 

 

 

 

 

中間での感想:歴史メモ

600年周期?

紀元前600年-紀元0年:徐福と弥生、青銅器と祭祀の時代・・「和」

紀元0年-600年:倭人(古代の豪族)の時代・・「武」

600-1200年:ヤマトから平安期までの天皇の時代・・「和」

1200-1800年:鎌倉から幕末までの武士の時代・・「武」

1800-2400年:天皇と政治家・官僚の時代・・「和」

2400-3000年:何の時代?・・「?」

この調子だとまだ日本政府が確立した状態は300年くらい続くかもですね。でもその後は何の時代でしょうか?

上記で和というのは必ずしも平和という意味ではありません。^_^

次回から武士の時代に入ります。(事微記)

 

徐福と大山:歴史メモ

箱根からも近い名刹として雨降山(あぶりさん) 大山寺があります。大山阿夫利神社に向かうケーブルカーの途中の大山寺駅からすぐです。阿夫利神社までは伊勢原駅から40分くらいです。江戸期には大山詣で賑わいました。ここの創建は箱根神社や王禅寺より2年前の755年でやはり神仏習合の修験場でした。

大山阿夫利神社の創建は遥か昔2200年前と言われています。そこで登場するのが徐福です。徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探すよう命じられ東方の蓬莱山を探訪します。徐福は医経・経方・房中・神仙の四科の方術を行う方士でした。要するに、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術天文学に通じた学者です。始皇帝は童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣し、徐福に託します。

当時の日本は縄文時代から弥生時代に変わる頃。紀元前219年に大船団を率いて中国から渡来した徐福は九州を皮切りに東北にまで足を伸ばします。富士山こそが蓬莱山と考えた徐福は富士山から大山の辺り一帯で仙薬を探したものの見つけることができず富士山の東北側、山中湖から山梨県道志村の一帯で500人の童子童女が土着したとされています。

徐福は一度秦の始皇帝に報告のため帰国しましたが、再び日本を訪れた後は中国には帰国しませんでした。日本で土着し数々の技術を伝えた徐福伝説は日本の至る所に存在します。

徐福はその後の物部氏の祖先であったという説もあります。それについては調べていませんが、秦の始皇帝も徐福もユダヤ人であったという説には私も同じ意見を持っています。神奈川県の秦野氏や京都の太秦(うずまさ)などに共通性があります。

12年前の2007年に趣味でユダヤと日本の関係を調べたことがあります。詳細は別途に譲りますが、私の説の概要は以下の通りです。

モーゼが出エジプトイスラエル十二支族を率いて神の啓示を受けたのが紀元前1290年。その後イスラエルを建国しダビデ王・ソロモン王の繁栄ののちにイスラエル王国ユダ王国に分かれ、紀元前721年にはアッシリア捕囚を受けます。この際にエフライム族とマナセ族は東方に脱出し、イスラエル十支族が残ります。脱出した2支族はイラン北西部のメディア王国に逃れアフガニスタン近くのギリシアバクトリア王国を経由して、中央アジアの東西交易が得意な騎馬民族月氏の大月氏国をさらに経由して中国に到達します。

秦の始皇帝は戦後時代の雄であった斉・楚・魏・趙・韓・燕を平定し初の統一国家を創設しましたが「紅毛碧眼(こうもうへきがん)」であったと言われています。つまりギリシア系または中央アジア系の顔立ちであったわけです。日本人のルーツとしても基本は混血ですが、滅亡した秦の始皇帝の子孫が朝鮮半島に逃れ、さらに日本に入植したという説があり私も支持しています。

なぜかと言えば、Y染色体DNAの人種分類をすると日本人は漢民族朝鮮民族とは違うグループに分類されチベットやエジプトと同じグループに分類されるからです。この結果と東方ルートの経緯が辻褄が合うことで私はそう信じています。

ちなみに、最初に日本に入ってきた徐福や始皇帝の子孫はエフライム族のユダヤイスラエル)人で、のちにヤマト王権を創立した朝廷はマナセ族だと思っています。日本とユダヤの共通点は、同じような神話、ヘブライ語の民謡、神社とユダヤ教の方角や造りの一致など数多いです。

さらに徐福一行は道志村に土着したされていますが、道志村のすぐ北に山梨県大月市があります。公式には大ケヤキを大槻と読みそれが転じて大月となったとありますが、私は信じていません。例えば埼玉県岩槻が岩月にはならないのと同じです。徐福たち一族の始皇帝のルートが中央アジアの大月氏国であるならばそれを引用するのが自然だと思えるからです。

これら一連のユダヤについては別の章立てに譲ることにします。

話を戻すと、箱根神社大山阿夫利神社雨降山大山寺)・星宿山王禅寺は同時代であり不思議な縁で結ばれている気がします。

(事微記)