事微記 - ちゃらんぽらんな日記

歴史や文化、ビジネスのことが中心です。

鎌倉から始まった:歴史メモ

「歴史メモ」シリーズに戻って来ました。1ヶ月ほど開いたのでどこまで書いたかな。

 

日本は遣隋使・遣唐使と中国に最新技術を学びましたが、鎌倉時代栄西が宋(そう)に学び禅宗を輸入したところで一旦打ち止めです。

宋は中国の歴史の中でも産業技術が振興し流通経済が発展した時代です。腐敗した唐末期の宦官を一掃した朱全忠の五代後梁時代ののちに初代皇帝として趙匡胤が創始しました。強すぎる武人の力を抑制し文治政治を行いました。水稲栽培技術、青磁白磁の陶磁器、イスラム教国までを含む海上貿易、商業決済手形や宋銭など数多くの技術や産業の発展を遂げた、極めて特徴的な時代です。今で言えば「圧倒的な特許などの知的財産権を武器に独占禁止法に抵触するほどの経済的優位性」を持った国と言えるのではないでしょうか?日本は、それまで中国とは朝貢貿易の延長で、半分いやいやだったものが、その目覚ましい産業発展に、真似をしてでも何とか取り入れようと考えたに違いありません。

そんな宋に学び、その後の日本文化を形作るものを輸入して来たのが、禅宗である臨済宗栄西でした。1191年に帰国した栄西は、1199年に栄西北条政子源頼家の帰依を得て政府公認の禅宗を創始します。

同時に1214年に喫茶養生記『茶桑経』をしたため、薬としての茶の効用を記し全国に広めます。お茶が輸入されたのは400年前の密教時代です。805年に天台宗最澄が茶の種子を持ち帰り、815年に僧永忠が嵯峨天皇に煎茶を献上した記録があります。この頃は、団茶と言って、茶葉を蒸しすりつぶし乾燥させ、飲むときは火であぶってから粉にして湯の中に入れて煮ていました。このように最澄空海などの公家系密教の頃にも茶はありましたが、貴族の間だけの薬でした。密教時代が第1次ブームとすると、鎌倉禅宗時代が全国に火が着いた第2次ブームと言えます。

宋では「茶馬貿易」といって茶を蒙古に売って馬を蒙古から買う。桑の栽培を奨励し絹を売る。このような特産品の交易で有利に軍備を調達していました。 これは良いビジネスだと栄西鎌倉幕府に教えて、後ろ盾を得たのだと思います。栄西喫茶養生記を記し普及に乗り出した茶は百年後の1290年前後には茶葉の産地が伊賀・伊勢・駿河・武蔵に広がります。禅宗の鎌倉仏教の南禅寺などもできて、お茶と禅宗という如何にも日本らしい文化が始まります。

ちなみに、茶葉の産地には北限があります。それに比べて桑の木は全国で育てることができます。東北などでも養蚕ができるので後世は盛んでした。また、この頃に始まった養蚕と生糸は600年後の明治日本を救うことになります。(事微記)

 

【異文化】”開山”では通じない翻訳

欧州でデジタル雑誌を発行しています。

日本の歴史で弘法大師空海高野山を開山したという翻訳をどう考えますか?

「開山」Open mountain. ?? 山をオープンする?きっと西洋人の頭の中は「はてな」だらけになります。

気の利いた辞書は「寺院を創始する founding a temple」と訳させようとします。確かに、実質的な意味はこちらの方が通りやすいです。

しかし、日本語の「山を開く。開山。」という言葉にも本質があるような気がします。

日本は海と山の国で平野は殆どありません。1万7千近くもある山の国とも言えます。その山は、草木や森に覆われた山林であって誰かが足を踏み入れない限り「道」などありません。

例えば、フランスや欧州の山ですが、森に覆われた山は少なく、どこからでも登ることができる山ばかりのように思えます。なので、欧州の人たちには「開山」ということが想像もつきません。しかし、日本に来て無名の山に登ろうとすれば「山を開く」という意味が納得して理解できると思います。

道無き道を作り、休憩場所を作り、中間キャンプを作り、修験者である山伏の鍛錬場所を作り、場合によっては山頂にお堂や寺社仏閣まで作る。つまり、山を開くとは「山を開発する」行為なのだと想像できます。Develop mountainにほぼ等しいですね。

古くは徐福が不老不死の薬を求めて山を開発し、平安時代には真言宗空海などの密教が全国偵察と情報収集の勅命を受けて、全国で山を開発し、寺を建立しました。

山を開発する行為は当時の最新土木建設技術がないとできないですね。山林を切り倒すなかで木材の種類毎の硬さの違いや使い方などの知識も蓄えられ、日本が世界に誇る木工技術が育ったように思えます。

「寺院を創始する founding a temple」と訳してしまうのはイージー過ぎないかなあ?と思えるので、取り上げてみました。

 

【異文化】隣国とのお付き合い

日韓関係がこじれていますね。

2002年サッカーW杯から始まった融和ムードから17年。友好が当たり前と思って大人になった人口も相当いるでしょう。

ただ、いつまでも昔の事をほじくり返し、果ては『天皇陛下が謝罪すればウチのお婆さん👵の心が休まる』と平気で口にするお隣に堪忍袋の尾が切れかかっている日本人が相当増えており、危ない状況です。

私は文化と歴史を双方ともに知らない事を危惧しています。

日本も韓国も儒教の国ですが内容は違います。韓国はイ・ソンゲ(李成桂)が1392年に李氏朝鮮を興して以来、朱子学の国です。日本では鎌倉時代室町時代に挟まれた南北朝時代の頃ですね。それからずっと朱子学で韓国歴史ドラマに出てくる儒者朱子学を学んでいる人たちです。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌で言えば忠や孝などに重きをおいています。王様に尽くす「忠」以外では神を信じているわけではなく、神に変わるのが親であり先祖であり、親や先祖に対する「孝」と家族や年長者に対する思いの「悌」が神に代わる精神性の拠り所です。これが韓国の文化と精神性の根本なのです。

一方で日本は、八百万の神や仏教が古くからあり、江戸幕府への忠節を誓わせるために新井白石などの朱子学者が登用されましたが、かなり後世になってからです。また、儒教の別の一派である陽明学が幕末からは重視されました。山田方谷佐久間象山や志士たちや西郷隆盛もその後の渋沢栄一陽明学派です。陽明学は民を中心と考え、かつ合理性を重視します。

李氏王朝への忠誠のために朱子学のみが重視され、陽明学は異端として排斥されてきた朝鮮半島とは陽明学を採用したか否かで大きく幕末から近代までの運命が変わりました。

アヘン戦争で国内が荒んだ中国(清)は、日本の幕末から明治近代化までの目覚ましい発展の原因として陽明学の存在を認め、明治日本に大量に留学生を送り込んだほどです。横浜中華街はそのような波の中で誕生しました。

李氏朝鮮時代の朱子学のみが今なお色濃く残るお隣の韓国とのお付き合いは一筋縄では行きません。何しろ、ウチのお婆さんと隣国の天皇陛下は対等だと信じているのですから。

難しい問題で、多分百年単位でこのような状態が続くのではないかと、私は考えています。ただ、戦争などという手荒なことを考えるよりは、お互いに文化を理解する(同調するのではなく)努力は根気よく続けて行く必要があるでしょうね。

感情的になっている人がいれば、その文化の違いを教えてあげることも必要だと思います。

 

 

 

天空海闊:山田方谷とクレスピ - 資本論 以前 - (2)

クレスピさんについては2011年9月1日の筆者記事を転載します。

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クレスピ村と至誠惻怛(しせいそくだつ)

 

150年前の資本主義の原点

資本主義は社会の生産性を高めるために必要な進化の段階ではあるが、資本主義の成熟とそれに伴う恐慌や階級闘争の激化を契機に革命が起こり共産主義に移行する。日本で大政奉還が行われた1867年マルクスは「資本論」を出版して、こう主張した。戦後の社会主義共産主義が失敗した要因は資本主義の成熟化という過程を経なかったことによるものとする意見も多い。

産業革命によってより多くの資源と原料が必要となり帝国主義の流れが強まったこの時代に注目すべき2人がいる。

ひとりはイタリア人クリストフォロ・クレスピで彼の企業城下町クレスピ・ダッタは世界遺産に認定されている。従業員に庭付き一戸建て住宅を与え、余暇の野菜作りを奨励し、劇場や温水プールを作り、資本家と労働者が幸福に共存できる街を作った。息子のシルビオ・クレスピは労働法関連の法律を作った政治家でもあり、ベルサイユ条約の講和会議にも出席している。ムッソリーニが台頭しなければ首相になったであろう。クレスピ・ダッタは1930年まで50年存続した。今もその労働者の子孫はクレスピ村に住んでいる。労働者の理想郷とされ公正な労働分配率の実践のひとつの見本であろう。

もうひとりは、さかのぼること20年前の1850年備中松山藩山田方谷が行った藩政改革である。至誠(誠実さ)と惻怛(慈愛)を旨とした方谷は、財政赤字を公表し、50年払いの借り換えを実行。同時に乱発で信用失墜した藩札(私製通貨)を焼き捨て藩に兌換を義務付けた。市場変動の激しい堂島米会所の動向に左右されないよう大阪の蔵屋敷を廃止し災害時には領民への援助米に当てた。上級武士にも下級武士並みの生活レベルを命じ、備中鍬などの特産品では生産者への報酬を重視した。貨幣価値喪失の藩札と多大な借金に悩む諸藩の財政破綻の中で唯一の成功例である。

山田方谷の考え方は弟子の三島中州を通じて、後に日本の資本主義の祖と称された渋沢栄一に引き継がれる。 これらに共通しているのは至誠惻怛であり渋沢栄一の云う道徳経済合一説だ。今の資本主義に欠けているのは道徳である。

心即理と至良知

陽明学の誤解

前述の山田方谷吉田松陰高杉晋作西郷隆盛佐久間象山王陽明陽明学の影響を大きく受けている。幕末の維新運動は、幕府と諸藩の財政赤字陽明学が遠因だったと言っても良い。

陽明学の「良知」とは正しいものは正しい、正しくないものは正しくないとズバズバ言って、その通り行動することである。これが革命運動にとっての精神的な支柱となった。しかしこの解釈には大きな危険をはらむ。自己の私欲や執着を良知と勘違いして暴走するリスクである。何か今の利益追求主義に似てますね。陽明学でも、本来は「心即理」という鏡面のような無私の境地を前提としている。

山田方谷はこの陽明学のもつモラルハザードの危険性を理解しており、弟子にはまず仁徳を説く朱子学を学ばせ、そのうちセンスの良い者にのみ陽明学を教授した。道徳と政治経済の一致である。

 

為政者にとっては再考の時

 15世紀の王陽明も19世紀のマルクス山田方谷、クレスピも共通する考え方が根底にあります。更にさかのぼれば紀元前の孔子老子などの諸子百家の時代でも治世の考え方は変わりません。年初のジャスミン革命でもSNSを通じて瞬く間に革命が広がりました。情報が瞬時に拡がるIT社会で為政者は心即理や至誠惻怛と向き合わざるを得ないでしょう。

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天空海闊:山田方谷とクレスピ - 資本論 以前 - (1)

今から190年前の1830年頃に備中松山藩山田方谷という朱子学陽明学を極めた学者がいました。

令和元年のタイミングで日銀は新札発行を決め1万円札には「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一で決まりましたね。確かに渋沢栄一は現在の東京証券取引所みずほ銀行の前身の第一国立銀行七十七銀行東京瓦斯など多くの大企業の設立に貢献しました。しかし、1867年に幕府随行員としてパリ万博に薩摩藩佐賀藩とともに参加したという幸運と明治時代という時代背景が大きく味方をしたという印象が拭えません。大正期に入った1916年に『論語と算盤』を著し「道徳経済合一説」を主張しています。渋沢栄一は私心を捨て尽力した立派な実業家です。しかし、彼に影響を与えたのは同僚で義利合一論を唱えた二松学舎創設者の三島中洲です。そして三島中洲の師匠が備中松山藩山田方谷です。

パリ万博の年は日本では慶応三年で色々なイベントが重なっています。パリ万博では数寄屋造りの茶屋が人気を博していた頃、大政奉還が行われ、坂本龍馬が暗殺されます。マイナーな話ですが、政治の舞台を失ったベルギーの貴族階級だったL・ド・ボーヴォワールLudovic De Beauvoirが世界旅行の途中で日本に寄り箱根七湯で入湯し遊んでいます。世界的に影響を与えたのはマルクスの「資本論:Capital: Critique of Political Economy」が出版されたことでしょう。

マルクス以前の山田方谷とクレスピ(イタリア)には以前から関心がありました。8年ほど前にセミナーで講演する機会があり、その時にも山田方谷に触れていますので、筆者の当時の記事をそのまま以下に掲載します。

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温故知新 - 150年前からの債務問題:藩政改革と正貨の問題

 

今から150年ほど前の19世紀は江戸時代から明治に移る激動の世紀だった。欧州では財政破綻と重税に耐えかねた民衆が蜂起した1789年のフランス革命の後に、ナポレオンが登場し版図を拡大すると同時に民主主義国家を続々と誕生させ、1810年メキシコ独立戦争など中南米に影響を与えた。

日本では諸大名が発行した藩札(私製通貨)が藩の財政を圧迫し続けていた。藩札の発行は1661年の福井藩から始まり、その後諸藩が続いた。豪商が札元となって引き受けるケースも多く、1753年秋田・久保田藩の佐竹騒動のように米の凶作を見込んだ商人の価格操作が行われるなどの事件もあり、藩の財政を圧迫し続けた。

1820年頃になると、財政破綻のリスクが高まるようになった。薩摩藩では税収の7倍の負債を抱えた結果、調所広郷が250年払いの借り換えを断行、肥前佐賀藩でも長崎の商人に対しては100年払い、鴻池に対しては千年払いの措置をとった。長州藩でも同様のデフォルトの事態に陥っている。

注目すべきは備中松山藩岡山県)の山田方谷1850年に行った藩政改革である。仁徳を説く朱子学と合理性を追求する陽明学の両方を学んだ山田方谷の理財論は、弟子の三島中州を通じて、後に日本の資本主義の祖と称された渋沢栄一に引き継がれていくことになる。

山田方谷は、「財政改革といえば、財政の窮乏という、数字の増減、即ち収入の増加と支出の削減をいかにするかということのみにとらわれてしまい、その他のこと(哲学)は財政再建の名のもとに片隅に追いやられてしまいがちになる。風紀やモラルが荒廃し、教育水準が低下し、社会が閉塞した状態では、いくら財政のそろばん勘定があっていても長続きはしない。あとで大きな反動が返ってきて、前よりも一層悪い状態に陥ってしまう。厳しい倹約と緊縮財政だけでは、経済が、社会が萎縮してしまう。額に汗して働く国民が報われ、豊かになるよう、いかにして経済に、社会に活力を与えていくかということに心を砕かなければいけない。つまり、国民を富ませ、幸福にさせ、活力のある社会をつくることが必要なのである。国民の立場に立って財政・税制等の社会制度を考えるということである。そうすれば、自然と財政は豊かになる。」とした。

実際には、主に以下の政策を採った。

  • 藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済)。
  • 大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
  • 上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開した。
  • 多額の発行によって信用を失った藩札を回収し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が減少し、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
  • 領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して一種の専売制を導入した。他藩とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視された。
  • これら特産品を、商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避け、直接江戸へ運び販売した。
  • 藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも藩士へ取立てた。

透明性・市場安定化策・為政者のモラルハザードの排除・通貨価値の安定・産業振興・マーケティングインセンティブといずれも現代の政策手段に合致するものばかりであり驚きである。この一連の問題と改革の処方で注目すべきは、「止むを得ず借金の整理をせざるを得ない事態に陥った場合には、政府(権威)の信用と正貨(信用ある通貨)がセットで必要である」という点である。

明治維新の翌年1869年に高輪談判が欧米列強5カ国と行われ、外国商人からクレームのあった贋貨回収を大隈重信国際公約をした。1871年には廃藩置県と同時に、藩札回収令が行われ通貨単位は両から円に切り替えられた。それに併せて、藩債処分が行われ267の藩・代官・旗本の債務は減額された(天保年間以前の債務は帳消しとなった。)。借金まみれの藩主は債務が消え華族になったが、主な貸し手の商人が集中した大阪経済は衰退した。

日露戦争の前の1899年、ハーグ陸戦条約で戦争行為のおける掠奪が禁止され、現地調達の物資も現金払いか領収書(軍票)の発行が義務付けられた。これにより、軍票が戦時通貨としての役割を果たすようになる。第二次大戦まで、軍の力により無理やり軍票での支払に応じざるを得なかった民衆はインフレ(紙幣の無価値化)に苦しむことになる。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本政府の軍票支払義務は連合国から免除されたが、1999年の東京地裁判決まで、香港・フィリピンの軍票補償問題は続くことになる。

「国家財政の破綻と正貨」の問題は今に通じるものがある。

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以上

(事微記)

異聞奇譚:欧州編(1)時間かかるのどんだけー?

昔はアジアでビジネスをしようとすると常識外れの事態が当たり前でした。先進国のほうが法令も整っているのでマシと。筆者はそれも1つの理由で現在フランスでビジネスを進めております。

ところが、これがまたスイスイと行きません!?

その1)消費税番号が3ヶ月も通知されない?

  • 今年1月にフランスに会社を設立しました。EUでは消費税はVAT(付加価値税)、フランスではTVAと言います。最初に送られて来たのは次のようにTVA番号が決まったので、その掲示を含め何百ユーロ払えという手紙でした。「ん?納税番号の通知にEUはお金を取るの?」単純な疑問です。で、よく調べてみると詐欺でした。納税番号通知詐欺なんてあるんですね。
  • その後1ヶ月経っても納税番号が通知されません。痺れを切らして現地の会計士に頼んで税務当局に交渉に。「もう1ヶ月以上納税番号が通知されないんすけど、消費税払わなくていいんすか?」。即座に再発行しますとのこと。でも結局3ヶ月かかりました。珍しいケースと言われましたが、大丈夫ですかね?お役人さん。

その2)Eコマースのクレジットカード決済申請に2ヶ月もかける銀行担当者?

  • 銀行さんは日本でも有名なフランスの某銀行さんに口座を作っています。その担当者M氏はテキパキとよくやってくれます。日本と違って必ず担当者が付くのでM氏とはよくやり取りをします。
  • Eコマースのクレジットカード決済は現地では銀行が必ず紐付きます。ただ、カード決済は部署が違うのでその担当者P氏を紹介してくれました。このP氏がとんでもなくダメダメです。申込んで3週間もほったかし。Webバンキングのメッセージ欄に「Pさんは3週間何もアクション取ってくれないんすけど」と書き込んだら、慌ててアクションをとり始めました。上司から怒られたのかな? しかし、その後もスイスイと行かず結局2ヶ月もかかってしまいました。

その3)不要な工事を水増し提案する工事業者?

  • お店を開こうとしてますが、不動産ブローカーが工事業者S氏を紹介してくれました。向こうは営業権売買や賃借権売買などインフィル(内装)工事が必須になるケースが多いからでしょう。今回のお店は新築なので大きな内装工事は不要です。しかしS氏の見積もりをみると「高いなー!新築でなんでこんなにかかるの?」。よく見てみると、倉庫を壊し、トイレの位置を変えと無理やり大掛かりな内装工事を見積もっています。建築許可が必要な水準までワザと不要な工事を計画してカサ上げしているのですね。道徳観も何もない業者です。無知な日本人はカモと思っているのでしょうか?

その4)何を言っているか意味不明のオンラインサポート?

  • 日本語は世界一曖昧な言語だと思っていました。主語も、場合によっては目的語も省略して会話するのが普通なので。外国人にはわかりづらい言語です。しかし、Eコマースのモジュール追加でのカスタマーサポートC嬢はさらに意味不明でした。「C嬢:作業用のパスワードを設定するから、Eメール認証がきたらURLクリックしてね。」「私:何のパスワード?」システムはサーバーやらアプリやらモジュールやら3つ以上で構成されるのでどこの部分のことを言っているのかがさっぱり分かりません。そんなやり取りが1週間以上続きました。これも多分、上司が見たのだと思いますが。「私の表現が不正確でごめんない。 XXXのXXXに関するパスワードを設定するのでXXXしてください。」やっと意味が分かりました。「最初からそう言えよ!」。

これ以外にも細かいところのスタックが結構あります。アジアよりましと思ってフランスを中心とした欧州でビジネスをしていますが、まだまだ血圧の薬は手放せそうにありません。

(事微記)

 

モノ(武器)作りの鎌倉期:歴史メモ

平安末期の武士の勢力が台頭してきた頃から日本刀の初期刀工集団が誕生します。良質な砂鉄が採れる中国山地備前、京の都に近い山城や大和の国で有力な刀工が生まれました。需要がありスポンサーがいる所で兵器産業は発達します。

鎌倉時代は武士政権の誕生で一気に日本刀文化が発達した時代でした。日本刀も形を変えていきます。太刀を佩(は)くのが鎌倉スタイルで馬上で抜刀するには刃は下向きでなければなりません。また、馬上から斬るので刀身は長くなります。長い刀身を馬上で抜くのは大変なので腰に紐でぶら下げる形で鞘を後方にずらして抜刀します。

その後、騎馬戦ではなく地上戦が主体になる後世では刃は上向きで刀身も短くなります。江戸初期の宮本武蔵のような脇差を使った二刀流も短く、佐々木小次郎燕返しの長刀は時代遅れだったわけです。

鎌倉後期には幕府の膝下の相模国でも日本刀が作られます、相州伝と言われています。日本刀ができる立地条件は①砂鉄が採れる川があること、②炭焼きをする森林資源があること、③泥が採れること、④綺麗な水があることです。北条氏の膝下の小田原は作刀にも好都合の立地でした。相州伝は総じてそれまでの刀の上品さはなく無骨な刀です。美濃関の日本刀も有名ですが、信長・秀吉などの大スポンサーが登場する戦国時代まで登場を待たなければなりません。

武士を「もののふ」というのは徐福が日本に来て物部氏となったことに由来します。物とはすなわち武器を意味し、徐福軍団の軍事統括が物部氏でした。同時期に海部氏も来ます。ただ、この時期に海戦はなくあくまでも朝鮮半島などとの交易の船の管理なので山陰など一部の地域に限定されます。徐福が九州から東北まで歴訪しそれに随行した物部氏は全国に根付きます。海よりも山間部の方が武器製造もでき、戦闘訓練もできるため自然と豪族になり武士集団を形成しました。

武士は山伏や野伏にも由来し山の戦いの民でした。また、武士は「さむらい・侍」とも言います。人偏に寺と書きますが、寺は「はべる・寄り添う」という意味から来ています。侍とは貴人(徐福や天皇、将軍)にはべる人であり僧侶は仏にはべる人という意味です。

私は徐福はエフライム族(イスラエルの民でエジプトの宰相になったヨハネの長男)で、物部氏とその後の多くの東国武士はその系統だと思っています。一方で、聖徳太子の参謀となった秦河勝に由来する秦氏や薩摩の島津や土佐の長宗我部が同系でマナセ族(ヨハネの次男)と考えています。ただ、イスラエルは複雑でマナセの他にユダ族や祭祀を取り仕切るレビ族が混じっている可能性もあり、いずれじっくり整理してみようと考えています。

話は戻って、この頃の陶器の窯も鉄の溶融炉も800〜1200度程度が限界でした。鉄の融点は1538度なので日本刀を鋳造しようにも温度が足りません。この半融解の鉄を叩いて分子を均質化していく鍛造の技術が、発展を遂げます。この職人技が世界一の切れ味を誇る日本刀を生み出しました。

神奈川には鎌倉に1件、小田原に2件、伝統製法を受け継ぐ刀鍛冶さんがいらっしゃいます。(事微記)